ミナ・トーキー2
2008 / 03 / 24 ( Mon ) 前回のつづき。
Lee De Forest(1873-1961)が開発したシステムを、皆川芳造が権利を取得して日本に持ち込みミナ・トーキーと呼んだようです。なので、これはたとえば土橋式トーキーのように「国産」とは呼べないのかもしれません。 皆川に依れば、このリー・ド・フォレストという人は大正十二(1923)年にトーキーを発明、ニューヨークで上映を行った…。しかしちょっと調べてみると世界初のトーキー映画としては1927年にワーナー・ブラザーズによる『ジャズ・シンガー』という作品だということになっていて、フォレストのトーキー発明より四年も遅いのに世界初。よく分からない…。 ちなみにこの『ジャズ・シンガー』は映写される映像にレコードを同期させるVitaphone方式というものを採用していたようです。 先に「皆川に依れば〜」と書いたのは、本人が建てた石碑を典拠としています。 浅草からほど近い、隅田川のほとりにある待乳山聖天(まつちやま-しょうでん)という寺院に「トーキー渡来記」と題したこの記念碑があります。 ![]() この碑文、現時点でネット上には見あたらないようですので、以下に全文を載せておきます。 -------<以下、碑文翻刻>------- トーキー渡來記(*右から左へ横書き) (*以下すべて縦書き) リー・デ・フオーレスト博士は明治六年米國アイオワ州に生れ(ママ)無線電信電話の開拓者として三百有余の特許権を得(改行) ラジオの父と仰がる。大正十二年更にトーキーを発明、紐育市に於て(ママ)上映世人を驚かせたり。大正十三年故高峰譲(改行) 吉博士令息エヴエン氏來朝の際、余親しくその詳細を聴きて将來に着目す、翌年渡米、博士の好意により東洋にお(改行) けるトーキーの製作及び配給権を獲得したり。依て(ママ)米人技師を帯同帰國、大正十四年七月九日宮中に於て(ママ)(改行) 天皇皇后両陛下の天覧に供し各宮殿下の御覧を仰ぎたる後一般に公開せり。トーキーの我が國に招來されたる之を(改行) 以て初めとす。以來余、我國におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフオーレスト博士の許に派して技術(改行) を習得せしめ余の渡米もまた前後九回に及べり。大正十五年大森撮影所において撮影を開始し、ミナトーキーの名(改行) を冠して黎明、素襖落、大尉の娘等の劇映画を完成す。これ我國におけるトーキー製作の濫觴なり。爾來トーキー(改行) は日進月歩、昭和三年の衆議院議員普通選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人とな(改行) りて政見を発表する等の普及発達をみたる外ミナトーキーは上海を始め東洋各地にも大いに進出するに至れり。(改行) 今やトーキー我國に渡來してより三十年を閲するもフオーレスト博士の発明形式は依然として世界各國に踏襲さる。(改行) フオーレスト博士は極東軍総司令官マツカーサー元帥を介して余に日本におけるテレビジヨンの創設を慫慂したり。(改行) 余正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙にテレビジヨンの創設に意あり、フオーレスト博士の勧奨を機とし、氏(改行) 独自の構想の下にテレビジヨンの実現に努力し遂に昭和二十七年テレビジヨン電波許可第一号を受け、日本テレビ(改行) 放送網株式会社を創立し余もまた役員に加わる。翌二十八年八月三十日日本における最初の電波を出せり。これ偏(改行) に正力氏の業蹟に依ると雖もまたフオーレスト博士の日本への友情に基く(ママ)ものというべく吾人の感謝措く能わざる(改行) ところなり。(改行) 今日トーキーの普及発達は実に目覚しく(ママ)、テレビジヨンの普及もまた瞠目に値す。フオーレスト博士の文化に貢献(改行) する処絶大なりというべし、茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟を卜して碑を建てトーキー渡來の由來とテレビジヨン(改行) 創成の縁由を刻して博士の功績を讃え併せて報恩の微意を表す。(改行) 昭和三十一年五月吉日 建碑者 皆川芳造 -------<以上>------- |
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